『埼愛自由日記』その2 家島朝鮮初級学校〜朝鮮学校版『二十四の瞳』?

島にあった朝鮮学校

 家島朝鮮初級学校の存在を知った時の“衝撃”は今でも鮮明に覚えている。朝鮮学校の歴史は日本の敗戦後、在日朝鮮人がみずからの言葉や文化を取り戻すために自主的に設立した「国語講習所」が原点であり、時を経て学校としての体制を整えていった…。朝鮮学校の問題に取り組む者として、それなりの知識は持ち合わせているとは思っていたが、まさか島に朝鮮学校が存在していた歴史があるとは想像すらしたことはなかった。

 その学校は現在の兵庫県姫路市の沖合にある西島にあった。淡路島と、『二十四の瞳』の原作者である壺井栄の出身地である小豆島の間に位置する大小44からなる家島諸島の島の一つだ。元々は瀬戸内海の無人島であったが、1925年に採石のために朝鮮人が住み始めた。以降、朝鮮人が集まり始めて集落を形成し、やがて日本人も住むようになったとのことである。1945年8月15日、朝鮮が植民地から解放された時点では100戸前後の朝鮮人が住んでいたと記録されている。

54の瞳・瀬戸内海の島にあった朝鮮小学校伝説

日本人児童も学んでいた!

 日本にいた多くの朝鮮人がそうであったように、この島に住んでいた朝鮮人の多くも帰国の途についたが、日本語しか話せない自分の子ども達の言葉の問題が浮上した。やがて空き家の民族教育が始まった。1947年4月には、現在の朝鮮総連(民族団体)の前進団体である朝鮮人連盟の方針に従って、「飾磨朝鮮学院・家島分校」となった。この時点で教師1名、生徒35名、修業年限を4年としていたそうである。

 家島朝鮮初級学校が他の朝鮮学校では見ることのできないもう一つの特殊性がある。それはなんとこの島に住む日本人児童も通っていたことである。1948年時点で、全校27名の生徒中、5名が日本人児童であったという。隣の家島本島にある学校に通う船便がなかったこと、定期便が運航された後もその運賃を支払う経済的な余裕がなかった等の事情により、日本人住民の強い要望がその背景にあったとされる。

 彼らには朝鮮語などの民族教科は行われなかったものの、自然に朝鮮語で話し、とある児童は自宅で「オモニ(母親)」、「アボジ(父親)」と呼んでいたという。

 弾圧と排外で語られることが多い朝鮮学校の歴史において、心がじんわりと温かくなる感覚になるのは私だけではないはず。(つづく)

埼愛キムチ新聞第15号(2022年9月24日発行)より


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