「声明 〈わたし〉たちにとって大切な子どもたちのために」呼びかけメッセージ
誰もが共に生きる埼玉県を目指し、埼玉朝鮮学校への補助金支給を求める有志の会
●須永和博(有志の会共同代表・獨協大学教授)
埼愛キムチを購入したご縁で、何度か学生たちと埼玉朝鮮初中級学校を訪れたことがある。事前に在日朝鮮人や朝鮮学校の歴史的背景を学び、植民地主義の歴史にうしろめたさを覚える学生たちは、心なしか緊張した面持ちで学校の門をくぐる。
しかし、いざ学校のなかで出会うのは、元気な声で挨拶をしてくれる児童や生徒たち、子どもたちを大事にしていることが伝わってくる校長先生の熱い語り、それを支える父母たちの姿といった「ごく普通の学校風景」である。いやむしろ、一般的な公立学校に比べて、教職員、子ども、父母同士関係が濃密で羨ましく思うこともあるほどだ。こうして学生たちは、朝鮮学校が子どもたちの貴重な学びの場であり、コミュニティであるという、至極当たり前の事実に気づく。だからこそ、日本の公立学校であれば当たり前にあるはずの施設やサービスが受けられない「普通でない状態」に驚く。このギャップへの気づきが、理不尽な理由から補助金停止を続ける政府や行政に対する疑問や憤りにつながっていく。
マジョリティである〈わたしたち〉が朝鮮学校を見学することは、他者を一方的に消費することにつながる危険性がある。だからこそ、見学という行為に内包する「まなざしの暴力」には十分自覚的になる必要がある。しかし同時に、〈わたしたち〉と朝鮮学校の人たちとの個別具体的な出会いや対話が、今の理不尽な状況を変革する萌芽にもなりうる可能性もあるのではないだろうか。そんな思いを抱きつつ、学生たちと訪問を繰り返してきた。
校長先生は「うちの子どもたちは在日朝鮮人であると同時に、埼玉県人ですから」と語る。ルーツは違えど、同じ地域住民である。共に地域に暮らす者同士が出会い、語り合い、時には七輪を囲んで焼肉を食べ、酒を酌み交わす。そんな関係を地道に作っていくことが、朝鮮学校の窮状に共に向き合い、誰もが共に生きる埼玉県を作っていくための一歩となるはずである。
●野村奈央(有志の会共同代表・埼玉大学准教授)
今回の公開質問状について話し合っている時に「母国語」という表現に違和感を覚えました。それは、私が「言語と国家は必ずしも一致しない」という認識を無自覚に内在化しているからだと思います。しかし、多くの在日の方たちにとって、日本語が第一言語であらざるを得ないという状況を考えれば、朝鮮語を「母語」と呼ぶことにも、なんだかしっくりときません。日常生活の中だけで自然に継承される環境ではないのに、「継承語」と呼べるのか、とも悩んでしまいます。何と呼ぶことが正解なのか、考えれば考えるほど、ますます分からなくなりました。ひとつ確信したことがあるとすれば、自らの努力によってアイデンティティの核をなす朝鮮語を獲得しなければならない状況を作り出してしまった国家に生まれた者として、経済的な負担なく民族学校において教育を受ける機会を奪ってはいけないということです
朝鮮学校とともに歩み、私たち・ウリの問題として補助金停止を考えるプロジェクト
●金澤(ウリプロ・メンバー)
わたしは日本で生まれ育った「日本人」ですが、日本に住んでいて「日本人ですか?」と尋ねられたり、日本語以外の音声言語で接客を受けたりすることがあります。もしかしたらそれは、わたしの音声日本語の発音や話し方に対する「聞き慣れなさ」があったのかもしれません。音声日本語の扱い方にずっと、慣れることのできないわたしには聴覚障害があり、障害者としてはマイノリティではありますが、「日本人」としてはマジョリティです。
差別は、単なる区別などでは絶対になく、今まさに生きている人間の存在そのものを否定かつ排除し、魂と尊厳を傷つけ、命そのものを奪う暴力につながる行為です。朝鮮学校に対する補助金停止も明らかな差別によるものであり、朝鮮学校や在日朝鮮人に対する日本国内での差別を助長させ、命を脅かすものです。マジョリティである「日本人」のわたしには、マイノリティである朝鮮学校や在日朝鮮人に対する差別を止める責任があると考えています。
自らの名を名乗ること、自分という人間を構成するルーツについて学び知ること、ルーツに関わる言語で語ること。一人ひとりの異なりから、お互いを知ることや尊重し合うことで豊かな社会の構成につながってきたのではないでしょうか。また、「異なる」だけでなく、お互いに「重なる」部分だって共有してきたはずです。多面的である人間の、変えることのできない属性だけを見て判断し、誰かを排除してしまえるような社会の中で生きていたくはない。望むのは、誰もが取りこぼされない、存在を否定されない、共に生きることのできる社会です。
●佐野(ウリプロ・メンバー)
「朝鮮学校問題」や「補助金不支給問題」と呼ばれると、誰が悪くて何が不適切なのかがぼやけてしまうが、私は日本に生まれた日本国籍を有する日本人として、これは間違いなく「日本社会による在日朝鮮人への差別問題」だと考えている。つまり、自分が当事者ではないからと黙って見過ごすことは、日本社会の差別を温存し、強化し、それに加担してしまうことになるから、この手でこの問題を解決したいと思っている。「差別をやめろ」という声が聞こえているのに、知らんぷりをして差別を続けることは私にはできない。そんな社会に、いくら日本人であっても、安心できる居場所などない。
●両角(ウリプロ・メンバー)
「日本人」として行政が差別を助長していることが許せません。
補助金停止の理由のひとつになっている拉致問題など朝鮮民主主義人民共和国との問題は、国家間の外交で解決すべきことで、日本に暮らす市民である在日朝鮮人の方々の生活や人生を脅かして解決するものではありません。
それどころか、行政の“補助金を支給しない”という振る舞いが、ヘイトスピーチをはじめとする日本に暮らす外国人への暴力を許容するような社会の雰囲気を作っていると思います。
埼玉朝鮮初中級学校が所在するさいたま市のホームページに記載されている『人権課題への取り組み』には、「外国人に対する偏見や差別をなくすためには、一人ひとりが互いに文化等の多様性を認め、言語、宗教、生活習慣等の違いを正しく理解し、これらを尊重することが重要であるとの認識を深めていくことが必要です。」とあります。
朝鮮学校へ補助金を支給しないと決定することは、朝鮮学校のこれまでの歩みや文化、習慣を正しく理解し、尊重している行為でしょうか。この決定を含めた行政の行使に関わってきた方々は、自身の判断や振る舞いが差別であるという自覚を持ってください。
埼玉朝鮮学校卒業生
●ウリン
私は東京朝鮮中高級学校に通う高校2年生だ。埼玉朝鮮幼稚園の通い、幼い頃から朝鮮語=ウリマルに触れて育ってきた。初級部に入学してから中級部を卒業するまでの9年間、民族教育を受けてきた。そして、今は11年目の民族教育を受けている。
幼稚園から中学校の12年間、私にとってかけがえのない大切な時間を過ごした母校が今もなお補助金の不支給という差別を受けていることに対し、ものすごい怒りと悲しみを感じる。
確かに、今でも日本と朝鮮の間に政治的な問題は多く、緊張している状態かもしれない。しかし、それが補助金を停止する理由になるのだろうか。日本人が日本の学校で日本語や日本の文化と歴史を学ぶように、朝鮮人が朝鮮学校で朝鮮語や朝鮮の文化と歴史を学ぶことと何が違うのだろうか。
自分の民族やルーツについて正しく学ぶ。この当たり前のことが認められず、差別を受けながら生きていかなければならない社会に、今、私たちは立ち向かい、本来ならば必要のない“闘い”をし続けているのだ。
埼玉県が補助金を停止し続ける理由として、「朝鮮学校が不当な支配を受けている」を挙げている。結局のところ、「不当な支配」とはいったい何なのかについての明確な説明はなく、この言葉で差別を正当化する埼玉県の姿勢にはあきれる。それだけでなく、そのような行政が、「埼玉県こども・若者基本条例」にあるような「人種・国籍等を問わず権利が保障される社会」を実現できるのかという疑問も抱く。
私は朝鮮学校に通う高校生として、埼玉朝鮮初中級学校の卒業生として、朝鮮学校の学生が差別を受け続けることは絶対に許せない。民族教育を通して自身のアイデンティティを確立させてくれ、堂々と生きていくことを教えてくれた大切な学校。二度と出会うことのできないウリトンム(親友)たちと出会えた大好きなウリハッキョ(私たちの学校)を私は必ず守っていきたい。私たちと同じ立場にいる後輩たちのためにも、必ず私たちの力でみんなが理解しあい堂々と生きていけるそんな社会をつくっていきたい。
●スナ
私は埼玉朝鮮幼稚園と埼玉朝鮮初中級学校の卒業生であり、現在は東京朝鮮中高級学校に通う高校2年生です。今も昔も私は“ウリ(私たち)”を育んでくれた、ウリハッキョ(私たちの学校)が大好きですし、共に学んだウリトンム(親友)はとても大切な友達です。
私は大切なものを失いたくありません。もちろん、一人の高校生の文章で、補助金の問題が解決するとは思っていません。ですが、大切なものを傷つけないために、少しでも多くの方々がこの問題を知るきっかけになればと思い未熟ながら、この文章を書いています。
私は初級部6年生の頃に英会話スクールに通い始めました。初めての授業での自己紹介で、私は朝鮮学校に通っていることを堂々と言えませんでした。今思うと私自身の勇気がなかったとも感じますが、なぜ、自分が通う学校を紹介するという当たり前のことを当たり前に言えなかったのでしょうか。そこには小さいながらも、「朝鮮学校に通っている」と言うと、差別されてしまうのではないかいう意識があったからだと思います。私は、この様な経験を大切な後輩はもちろん、私と同じような立場の人に経験してほしくありません。
「埼玉県こども・若者基本条例」の第3条に「全てのこども・若者について、個人として尊重され、その基本的人権が保障されること、人種、国籍、性別、障害の有無等による差別的取扱いを受けることがないこと」とありますが、その全てに私たち埼玉朝鮮初中級学校・幼稚園の子どもたちは含まれていますか。誰もが人種、国籍、性別、障害の有無等による差別的取扱いを受けることなく、暮らせているでしょうか。差別に立ち向かい、日々活動を行っている日本の方々に、同じ日本人として恥ずかしいとは感じませんか。もう一度、胸に手を当てて考えてみてください。
これからも私の暮らす埼玉県が誰もが“ありのまま”に暮らすことのできる街になることを願っています。