○○○から見る朝鮮学校 その3 詩
一九四九年十一月二日
この日、川口の朝鮮学校は閉鎖され、子供たちはふたたび日本の学校にひきとられた
元 朝鮮初級学校長の詩 5
さようなら
おれの仲間たち、
さようなら
あわれな朝鮮の小さな同志たち、
四年まえの一二月
君たちが はじめて
この校庭にあつまったときと
同じ冬景色の中を、
君たち いま
小さな手をふりながら
吉田の いわゆる「立派な学校」、
殖田の いわゆる「健全な教育」の中へ
この「暴力事件」の盟員のふところから
ひきとられて行くのだ、
鼻たらしの一年生は 一年生の朝鮮語で、
六年生や五年生は
六年生や五年生の朝鮮語で
センセイ オレタチ
ニホンノガッコウニ イッテモ
セイ一パイ ベンキョウシテ
リッパニ タタカイマスと
この先生を はげまし、
さようなら
おれの仲間たち、
さようなら
あわれな朝鮮の小さな同志たち、
君たちは ひきとられて
行くのだ、
さようなら
おれの仲間たち、
さようなら
四年間しか母国語を習う自由を
与えられなかった子供たち、
君たちを祖国へ結びつけ
君たちを ふたたび
母国語を奪う敵からまもってやると誓った
この先生は
何一つまもってやることもできず、
まだ十一月だというのに
早くもおとずれた冬ざれの中で
君たちのふっている手が
街角をまがり、
橋を渡り、
畑をつっきって
小さくなっていくのを
見送るばかりだ、
さようなら
おれの仲間たち、
さようなら
虜となって行く
小さな朝鮮の同志たち、
この先生は 君たちを
日本の学校まで送ることもできず、
この閉ざされた学校の
この傷だらけの校門に立ったまま
君たちを
送るのだ、
さようなら、
さようなら、
おれの小さな同志たちよ、
元気で、
元気でたたかってくれ。
『許南麒の詩』叙情詩集より
許南麒は1918年、当時は既に日本の植民地であった慶尚南道亀浦に生まれました。1939年に日本に渡り、日本大学芸術学部映画科に在学した後、中央大学法学部を卒業しました。植民地支配から解放されたあとは、民族団体の文化部門の職員や民族新聞での記者を経て、この詩が書かれた1949年当時は現在の川口市元郷にあった朝鮮学校で学校長をしていました。
統計によれば1945年11月の時点で埼玉県に住んでいた朝鮮人の総数は1万5865人、1948年4月の時点では4021人となっています。多くの人々は解放間もない朝鮮半島に帰りましたが、様々な理由で日本に住み続ける朝鮮人も相当いたのです。
しかし、「いつかは祖国に帰国する」ことを念頭に、当時の大人たちが取り組んだことの一つが朝鮮語と朝鮮史を中心とした子ども達の為の民族教育でした。1946年5月には寺子屋のような「国語教習所」が川口・大宮・川越・蕨(戸田)に設立され、やがて学校としての体裁を整えていきます。こうした動きは全国的なもので、1947年の統計では日本各地で初級学校541校、中級学校7校、高級学校8校、青年学校22校が運営されていたようです。教員は日本の大学で学んでいた朝鮮人大学生や卒業生であり、許南麒もその1人でした。
しかし、米ソの冷戦が深刻化してくると、日本においても非民主・軍事化の動きが加速され、朝鮮学校を取り巻く環境は急速に悪化します。日本政府は1948年1月24日に文部科学省教育局長通達を出し、朝鮮学校は日本の学校教育法に従わなければ閉鎖するとしました。日本の学校では朝鮮語も朝鮮史も学ぶことはできないので、朝鮮人は反対しました。兵庫県をはじめ、全国各地で大規模な反対闘争が行われましたが、1949年10月、日本政府・GHQは朝鮮学校の完全廃校を目指す、「朝鮮人学校閉鎖令」を出します。屈強な機動隊が土足で朝鮮学校に乗り込み、強制的に子どもたちを学校から追い出し、抗議する教員を逮捕したのです。
この詩には、こうした弾圧の中で閉鎖に追い込まれ、市内の幸町小学校に「転校」を余儀なくされた子どもたちの行く末を心配しながらも何もできない自身を無念に思う気持ちと、日本政府への激しい怒りが静かに表現されています。
71年前のその日から今日まで、日本は何が変わり、何が変わらなかったのでしょうか。
来年、県内各地にあった朝鮮学校を統合した埼玉朝鮮初中級学校は創立60周年を迎えます。
埼愛キムチ新聞第3号(2020年12月12日発行)より
「埼愛キムチ新聞」は埼愛キムチの頒布会毎に発行しています。このページやPDF版を、周りの方々にぜひとも広めていただき、埼玉朝鮮学校をはじめ朝鮮学校の現状を多くの方々に知っていただけたらと思います。