○○からみる朝鮮学校 その6  詩・その2

これが おれたちの学校だ

一九四八年四月、東京都京橋公会堂で開かれた朝鮮人教育不当弾圧反対学父兄大会に寄せた朗読のための詩

元 朝鮮初級学校長の詩 2

子供たちよ
これが おれたちの学校だ
校舎はたとえみすぼらしく、
教室はたった一つしかなく、
机は
君たちが 身ををよせると
キーッと不気味な音を立て
いまにもつぶれてしまいそうになり、
窓という窓には
窓ガラス一枚ろくにいれられなくて
長い冬は
肌をさく北風で
君たちのさくらんぼのような頬を
あおざませ、

そして雨の日には雨が、
雪の日には雪が、
そして一九四八年 春三月には
ときならぬ嵐がふきすさび、
この窓をたたき、
君たちの本をぬらし、
頬をうち、
あげくのはては
学ぶ自由まで奪いあげようとし、見渡せば

百が百
何一つ満足なもののない
おれたちの学校だ、

だが 子供たちよ、
君たちは
ニホンノガッコウヨリ
イイデス、と
つたない朝鮮語で
おれたちも祖国が統一しさえすれば
日本の学校より
何層倍も立派な学校を
建てることができるじゃないかと
かえって
この涙もろい先生をなぐさめ、

そして また きょうも
カバンを背負い
元気一ぱい学校に来るのだ、

子供たちよ、
これが おれたちの学校だ、
校舎はたとえ貧弱で
はなしにならず、
大きなすべり台一つ、
ぶらんこ一つそなえられなくて
君たちの遊び場もない
見すぼらしい学校ではあるけれど、

ああ 子供たちよ、
これが ただ一つ
祖国を離れた遠い異国で生れ
異郷で育った君たちを
ふたたび祖国のふところにかえす
おれたちの学校だ、

ああ
おさない 君たちよ、
朝鮮の同志たちよ。


 この詩の作者である許南麒は1918年、当時は既に日本の植民地であった慶尚南道亀浦に生まれました。1939年に日本に渡り、日本大学芸術学部映画科に在学した後、中央大学法学部を卒業しました。植民地支配から解放されたあとは、民族団体の文化部門の職員や民族新聞での記者を経て、この詩が書かれた当時は現在の川口市元郷にあった朝鮮学校で学校長をしていました。

 統計によれば1945年11月の時点で埼玉県に住んでいた朝鮮人の総数は1万5865人、1948年4月の時点では4021人となっています。多くの人々は解放間もない朝鮮半島に帰りましたが、様々な理由で日本に住み続ける朝鮮人も相当いたのです。

 しかし、「いつかは祖国に帰国する」ことを念頭に、当時の大人たちが取り組んだことの一つが朝鮮語と朝鮮史を中心とした子ども達の為の民族教育でした。1946年5月には寺子屋のような「国語教習所」が川口・大宮・川越・蕨(戸田)に設立され、やがて学校としての体裁を整えていきます。こうした動きは全国的なもので、1947年の統計では日本各地で初級学校541校、中級学校7校、高級学校8校、青年学校22校が運営されていたようです。教員は日本の大学で学んでいた朝鮮人大学生や卒業生であり、許南麒もその一人でした。

 しかし、米ソの冷戦が深刻化してくると、日本においても非民主・軍事化の動きが加速され、朝鮮学校を取り巻く環境は急速に悪化します。日本政府は1948年1月24日に文部科学省教育局長通達を出し、朝鮮学校は日本の学校教育法に従わなければ閉鎖するとしました。日本の学校では朝鮮語も朝鮮史も学ぶことはできないので、朝鮮人は反対しました。1949年10月、日本政府・GHQは朝鮮学校の完全廃校を目指す、「朝鮮人学校閉鎖令」を出します。

 この詩は、70年以上も前に書かれた誌です。植民地支配から解放され、自らの言葉と歴史を学べる場、“おれたちの学校”に噛みしめるかのようにうたう、作者の気持ちと、子どもたちの様子がよく表されています。 反面、民族を“学ぶ自由”を“奪いあげよう”とする日本の在り方が変わっていないことも痛感させられるのです。

埼愛キムチ新聞第11号(2022年1月29日発行)より


「埼愛キムチ新聞」は埼愛キムチの頒布会毎に発行しています。このページやPDF版を、周りの方々にぜひとも広めていただき、埼玉朝鮮学校をはじめ朝鮮学校の現状を多くの方々に知っていただけたらと思います。